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現在東北関東大地震に伴う福島第1原発の破壊により非常に緊迫した状態になっているのですが、この事故に伴う状況判断をするには適切な知識が必要です。マスコミやインターネット上でやりとりされている情報を見る限りでは不適切と思われる判断や解釈があるように思います。

私は医療放射線物理に関する知識が少しはある人間ですが、さすがに正確に状況を説明し放射能に対する正しい知識を伝えられるほどの実力は無いと思っています。

このような状況で著名な学者による今回の福島第1原発の事故を含めた放射能に対する基本的な解説が公開されています。高校の物理、化学レベルの知識があれば十分理解できるのではないでしょうか? 日々不安に感じている方も多いと思いますが、その不安はある程度の知識により軽減する事ができると思います。正確な知識と冷静な論理的判断があれば無駄に不安を感じる事も無いと思います。

量子物理学者の方々による解説が以下のURLにて公開されています。私も拝見致しましたが、専門家対象では無く、一般の方に向けた資料として最も重要な部分が解説されていると思います。

http://ribf.riken.jp/~koji/jishin/ (ページ内下方ににPDFファイルのダウンロードリンクがあります)

ぜひ、ご覧になった上でマスコミ等からの情報を判断する基礎として役立てて頂ければと思います。

PCを使うようになってうん十年経ちますが、意外に手書きも無くならない物です。ドキュメンテーションなどはさすがに全てPCでやっていますが、アイデアの捻出や落書きはやはり手書きにかないません。昔は鉛筆(シャープペンシルも)を使っていたのですが、さすがに芯の減りにより線質が大きく変わるのですこし面倒になり、それ以来万年筆を使ってます。

母親がずっとつけペンを使っていて(さすがに今は使っていない)、それで店の帳簿を全部つけてました。あの線質のイメージがずっとあり自分でも使ってみてやっぱりなかなか良いと感じました。中学生の時まで書道をやっていた事もあり手書き文字に対する変なこだわりもありました。また筆と墨で字を書くのもいいのですが、実生活での利用シーンがあまりないので、実用性もありなお活字に色々と変化を付けられる万年筆を使っている次第です。

今年になって楽天のポイントが結構たまって放置されているのに気づいたので、そのポイントを使って一本さらに買ってしまいました。

 

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奥が今回買った、PILOTエラボー。手前は以前から使っているキャプレスFERMO

今まで使っていた万年筆にはブルーインクを使っているのですが、やはり時々黒インクが使いたい時があります。黒インク用に一本欲しかったというのもあります。という事で、ペンの色と合わせてエラボーには黒インクを入れてます。FERMOはブルー(朝顔)です。これらの2本とは別にもう1本主に自宅で使っているペリカン デモンストレーターがあります。

 

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一番右がペリカン M205デモンストレーター

現在この3本体制でやってます。エラボーはほぼサイン専用ペンと化してますが。

手書きもたまにはいい物ですよ。ただ、めんどくさがりやインクで手が染まるのが嫌いな人には”万年筆”はお薦めしません。(万年筆でもカートリッジを使えば手が汚れる事は無いと思いますが)

では。

現在ではインターネットのない世界などなかなか想像さえ付かない状態になってきましたが、現在の商用インターネットができる以前、私が大学生時代にはまだ大学さえネットワーク化されていませんでした。私が研究室所属になった時から研究室のコンピューター管理者になると共に大学のJUNET参加や学内のイーサネット化をやっていました。大学では初代のポストマスターにもなりました。JUNET時代は参加者は大学、研究機関で例外なく記名での情報のやりとりでした(匿名にしようにもメイルのリレーパスを見れば一目瞭然でしたからね)。ネットワークの運用に関する情報や研究に関する情報のやりとりを行うことで非常に有用なネットワークでありました。JUNETを経てWIDEなどの学術ネットワーク機関がIIJへ分化し多くの商用ネットワークの運用が開始され現在のインターネットを形成しました。インターネットがここまでになるとは、正直私もその時は思いませんでした。万人が参加できそのメリットを享受できるようになりましたが、インターネット上の情報の質(利用者にとっての有用な情報の量)はやはり大きく下がったと言わざるを得ません。かつてはこの情報量の質、S/Nが非常に高かったため情報の選別や解釈に多くの手間をかけなくてよかったのですが、現在行き交う情報に対してはこのS/Nを上げるための知識、技能が非常に重要となります。結局ここ10年ぐらいのインターネット上でのサービスというのはこのS/Nを上げる仕組みを提供しているに過ぎないようにも思います。かつては必要無いぐらいだった物ですが。

このネットワークのS/Nが下がったのはS(利用者にとって有用な情報の量)よりも遙かにN(利用者にとって不要な情報、および有害な情報の量)が莫大に増えたからに他なりません。いかにこのSの部分を効率よく手に入れるか、が重要という事ですね。かなり昔からData Miningを声高々に叫んでいたSymbolicsはやはりすばらしい。(Symbolicsってまだあるのかな?) このような状況が現在の情報戦と言われる状況を作っているのでしょうね。このような状況も一つの手段にはなるでしょうが、これで世界の価値基準が変わるのは正直頂けない。

と言うことで、日々膨大なメイルやRSSの処理をしている私ですが、自分なりに情報に対する選択度、感度を上げる工夫をしないと情報に押し潰されてしまいそうです。皆さんはどのような工夫をされていますでしょうか? 既に古くなって居るであろう私にアドバイスを頂けると、ものすごく嬉しいです(^_^)/

今日はまた昔話をしたいと思います。

私はテレビ事業本部の一般海外事業部という部署に配属され新人として日々精進しておりました。入社後にまず担当したのは電源回路で当然一人で担当できる腕はないのでベテラン担当者に付いて毎日教科書と回路図とパターン図を見ながら論理検証と試作品の実機を見比べておりました。もう設計は終了しており、いよいよ工場でのオンライン(生産開始)を間近に控え緊張はピークに達しておりました。先輩方は工場でスタンバイしており日々状況が日本の部署へ報告され事業部、現場とも対応に追われておりました。現場からの電話やFAXが怖かったです。

いよいよオンライン3日前となりもう量産Go(実際はマウントGo)といったある日、工場の資材からある部品が納品されないという報告がやってきました。部品は1モデルでも1000点以上ありますが、当然その中の一つでも足りなければ作れません。その部品は電源回路で使われるブロックケミコン(大型の電解コンデンサ)でした。課長からすぐに呼ばれ部品メーカーに確認し調達方法を考えろという指示でした。この時点で量産計画の変更は不可能でもしオンラインできなければ当然ながらスケジュール通りの出荷も厳しくなります。これは非常に大変なことで単に販売会社への信用がなくなるだけでなく、契約違約金の支払いなども生じます。当然工場の生産計画も大きく変える必要がありほかのモデルの生産計画も変わります。要するに3日後にマレーシアの工場のマウンターに部品をセットしなくてはいけないという事です。部品メーカーの担当者と連絡を取り部品の調達を考えました。世界中の在庫を確認してもらいさらに部品メーカーの工場での生産も何とかできないか色々と協議しました。その結果マレーシア調達分だけでは足りなく日本の工場で生産した物を至急送らないといけないことになりました。しかし、通常の輸出ではとても3日ではマレーシアに送れません。状況を課長に報告したところ、部品メーカーから部品を受け取っておまえが工場へ持って行け(ハンドキャリーしろ)、との指示でした。いきなりの出張命令でした。2時間後には私の机の上には飛行機のチケットとインボイスがさらっと置かれており、その後部品メーカーから不足分のケミコン5000個ほどが届きました。5000個ほどのケミコンというのは一辺が1mの段ボール箱一箱以上です。段ボールに詰められないケミコンはスーツケースに入れ私の荷物とともに何とか手荷物2つに抑えました。飛行機はマレーシア直行便が取れずシンガポール経由クアラルンプールになりました。夕方発の便で成田発なのですが、成田でチェックインしようとしたところ手荷物の重量が30Kgを超えていたためエクストラチャージを取られてしまいました。ま、当然なのですが。そのときはまだ全くの素人だったため、そこでビジネスクラスにアップグレードするとかいう技を使えませんでした。(ビジネスクラスは手荷物の重量制限が増える)

ようやく飛行機に乗り(大好きなSQでした)ちょっと落ち着けるのですが、ここで寝ていてはいけません。部品が無事工場のマウンターに届くまでのシナリオを考えてそこに潜むリスクを考えていました。が、まだ新人の私に想像できることなどたいした事はない(今となってはほんとにそう思います)のですが、やはり不安です。この後待ち構える中ボスキャラをこの時点で想像できる訳がありません。やはり仕事はその前線に立ってなんぼです。

飛行機は約8時間後にチャンギ空港に着きました。もう22時ぐらいでしたが、乗り継ぎが短く走って次の便のゲートに急ぎます。ちょっと急ぎすぎ時間ができたのでゲート前の椅子に座って雑誌を読んでいました。周りにもサラリーマンらしき人も居たのでそれに混じって余裕をかましていました。雑誌を読みふけっていると周りの人がなんか居ない。もう搭乗始まってる? と思いゲート前の掲示板を見るとゲート変更になってるじゃないか! さすが周りのサラリーマンは早い。 猛ダッシュで新ゲートに向かうともう乗り込んでる最中でした。やはり海外を飛んでる日本人サラリーマンは動きがいい。

SIN-KULは1時間ほどです。乗り込んだ飛行機はMHで結構ぼろい。機内サービスもありません。1時間はあっという間ですぐにマレーシア国際空港(もう古い方です。名前は非常に難しいので未だに覚えられませんでした)に到着し、入国審査を早々に済ませ(ここは難なく通過できた)、一番大切なケミコンを受け取るため、荷物ゲートで待ちます。しかし、ここで中ボス。30分ぐらい待っても出てきません。もう周りの客もかなり減って私を含め数人になりました。ひょっとしてチャンギでロストか? いや、そもそも成田で積み忘れ? もう、血の気が引きました。実は荷物のロストは結構よくあります。私も2回ほど経験があります。直行便なら比較的安心なのですが、経由する場合経由地で荷物が違う便に乗ったり(いきなりロンドンとかに行ったこともありました)、積まれなかったりします。日本の空港はそういうミスはあまりないのですが、海外の空港は本当に当てになりません。急いでカウンターに行き検索してもらいます。係員の人からシンガポールでちゃんと乗ってるのは確認できたので来てるはずだという事だったので、待つこと10分、なんかぼろぼろになった箱が出てきました。いい加減にしろと言いたかったですが、そんな暇はありません。既に0時過ぎてましたので。気を取り直し、段ボール箱にロープを巻き箱を引きずりながらカスタム(税関)へ。会社の先輩からマレーシアの税関はいい加減だからグリーンベルト(非課税申告ゲート)を行けばいいと、まんまとだまされていた私はグリーンベルトを通過しようとしていました。しかし、1m四方のでかい段ボール箱をロープで引きずっている奴をそのまま通す訳がありません。もう深夜の空港出口で人もまばらで暇そうにしている税務官5人に囲まれ、ちょっと来いと引っ張られてしまいました。あっさりと箱と手荷物すべてを開けて見せろと言われ、そこで口で交渉するなどという高度な技を持っていなかった私としては言われるまま、手荷物と部品すべてをぶちまけ、尋問開始となりました。これは何に使う?から始まり、インボイス持ってるだろ? インボイスありながらなぜグリーンベルト? マレーシア初めてだろ? おまえ誰だ? と状況は悪化の一途をたどり遂に別室に入れられ、パスポート、社員証を取り上げられ尋問されること1時間ほど、税関のちょっと偉い人と思われる人がやってきて、今すぐマレーシアの工場に連絡しろと言われました。しかし、もう夜中、人は居ません。その旨説明しましたが、私が会社の人間であることが確認できない限りここを出せないと言われました。もう泣きそうでしたが、どうしようもないので現地に赴任している先輩に電話をして状況を説明したところ、すぐに空港に迎えにきてもらえることになりました。先輩を待つこと30分ほど、ようやく先輩から説明してもらい私が会社の社員であることは信じてもらえました。が、肝心の部品は税関で保留するとのこと、おい、そこが一番重要なんだよ、と思いながら私が焦っていると先輩が交渉し朝に工場の現地の人間を引き取りに来させるという事で話がまとまりました。おまけに現金でデポジットを山のように要求されましたが、先輩があっさり払っていました。ま、この辺は色々あります。

先輩と空港を後にし、私の宿泊予定のホテルに送ってもらいました。さすがに先輩も眠いという事でホテル前で別れ、私は一人ホテルにチェックインしようとしました。庶務さんからはホテルの予約も確認していましたが、予約番号などを控えてくるのを忘れていました。で、受付で私の名前を告げ予約している旨を伝えたところ、”No book with your name”、予約無い、と言われてしまいました。おい、もう3時過ぎてるのに、眠れないのか? と途方に暮れてましたが、もう何とかしてくれ、うちの会社の社員がいつも使ってるじゃないかとごねていたら一部屋用意してくれました。やっぱり海外では言ったもん勝ちです。しかし、部屋に入った時には4時を回っており、6時には起きて工場へ行かなくてはいけません。結局1時間ちょっと気を失っただけでした。7時に先輩がホテルに迎えに来てくれ、そのまま工場へ向かいました。工場では先輩たちが待っていてくれ、よく来れたな、と言う訳のわからんことをぬかしておりました。で、経緯を話し、部品はまだ持って来られなかった事を話すと、”おまえだけ来てどうする”と元もこうもないことを言われる始末。しかし、工場のマレーシア人社員が既に空港に部品を受け取りに向かっていて、私が工場到着後1時間後には無事ケミコン5000個をラインに投入可能となりました。一応、私の任務完了です。ここで、もう気を失いそうになりましたが、日本にいる課長に報告しようやく終わったか、と思った瞬間、課長からはそのまま製品出荷まで現地で対応しろと言われました。君の飛行機チケットオープンだからいつまで居ても問題ないとか言われてしまいました。飛行機のチケットのこともよくわかっていなかったのですが、私が渡された飛行機チケットはオープン(要するに片道チケット)だったのです。課長としてはハンドキャリー後、そのまま現地でのオンライン要員として現地対応させるつもりだったのですね。ま、普通そうですけどそう言ってくれ。前日の税関で尋問を受けた時にチケットも確認されましたが、オープンチケットだったのはかなり悪印象だったことでしょう。今となってはこの辺のことはぬかりなくできますが、何も知らない新人にはハードなOJTでした。

その後2週間ほどマレーシア工場に滞在し、その間にはさらに色々と修羅場がありました。日本に帰国する頃にはもう半年ぐらい経ってるんじゃないかと思うほど、いろんな経験をしてました。世界を股にかける仕事のほんの一部分を経験するきっかけでした。正直、世界で仕事するのは言うとかっこいいですがやるのはかなりしんどいです。たくさんの海外出張で飛行機移動中に商社の方とかともお話しすることもありましたが、本当にしんどいです。ただ、おもしろいし、こうやって話のネタにもなります。

今や情報だけなら誰でも世界を股にかけることはできるでしょうが、やはり自分の足と五感で股にかけましょう。きっと今まで見えなかった物が見えるようになります。

以上、私の昔話でした。

今日は1月5日。すでに会社などは業務を開始しているところがほとんどだと思います。私の旧職場も今日からですね。

私は遂にすべての肩書きを失いましたが、今日からピンの仕事人として活動しています。とりあえずは、求職活動、その他営業をしています。家の部屋を大きく模様替えして、仕事ができる環境を整えました。年末年始は家の中が大変なことになっていましたが、ようやく昨日ゴミの収集が始まり少し片付いてきました。

今月は役所などの手続きの作業も多いので結構時間をとられます。求職活動に向けての資料作りも結構時間がかかります。環境の変化に対応する、というのは口で言うのは簡単ですが、結構大変なものですね。

今年2日に嫁の実家に行くついでに初秋葉原詣でをしようとしたのですが、あまりの人の多さにあっさりと退散しました。今日か明日あたり行きたいと思っています。神田明神に参っていい仕事に巡り会えるようお願いしてきたいと思います。

私にとっては今年は多難なスタートとなりましたが、ここから急上昇できるよう努力したいと思います。皆さんにも負けないようがんばりたいと思います。

では、本年もよろしくお願い致します。

OJT

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今日は私が入社してしばらく受けていた社内研修などについてお話しします。

かつての日本の企業では研修と称して座学や新人を集めて集中的に訓練を行うなどのOff-JTが多かったと思いますが、最近はOJTが基本の会社も多いと思います。OJTとはOn the job trainingのことですね。私の勤めていた所でも基本はOJTとなっていましたが、私が入社した時代にはまだOff-JTが結構ありました。入社後3ヶ月ぐらいは一日のうちに2時間ほど会議室に集められ講師を立てていろんな講義や実習などを行いました。内容としては技術者向けの実践的な講義から、一般的なマナーなどを含めた社会人教育のような物もありました。メーカーでしたので製造実習や販売実習もきっちりありました。こういったOff-JTに加え日々の実業務でのOJTがきっちりされていました。ただ、結構会社が厳しいのは、これらの研修期間中は厳しく評価されていて入社後3ヶ月の試用期間中に会社が不適合と判断した人に対しては本採用しないと言う事です。4月の時点ではまだ正社員ではなく仮採用の状態です。試用期間は会社によっても違うと思いますが、本採用にならない限りは正社員としての扱いはありませんので、気を付けたい所です。私の同期でも数人が本採用されず、いきなり居なくなってしまいました。

試用期間を終了し本採用となると、課長から”社員としての権利が与えられるが、社員としての責任をきちんと果たすように”と釘を刺されました。ま、当然なんですけど、やはりかなりびびりますよね。会社では業務命令は絶対です。これに反すると解雇事由になる事があります。当然、上司としてむやみな業務命令は出さないですが、”自分ではできそうにありません”、と言っても聞き入れてくれる可能性は少ないです。(上司に対しなぜできないのかを論理的に説得できれば受け入れてくれるかも知れませんが)。上司もしくは会社の命令というのはその社員に対する期待値でもあります。なので、その命令をこなしていく事は重要なのですが、できなかったとか、その期待値を下げて欲しいというのは会社から見ると”どうしようかな?”と思わせるに十分だったりします。なので、入社後数年はとにかく会社の期待値以上の活躍、実績を残す事が重要です。それによって中堅以降のサラリーマン人生が変わります。なので、OJTとか研修といえども全力で行きましょう。ただ、私は全力で行き過ぎてしまった為2年目に体をこわしてしまいました。ちゃんと考えて全力を出しましょう。

しかし、OJTと言っても具体的に何するの?ですよね。こればっかりは個人によって違うと思いますが、私が新人時代最初にやったのは、部署に掛かってくる電話取り次ぎと試作品の作製、改修作業でした。これをかなり延々とやってました。正直最初は修士まで出たのに電話番とはんだ付けだけやってて良いのだろうか?と思った事もありました。これは実際私が入社数年後、自分が教える立場になった時つくづく分かりましたが、電話番によってまず、部内のメンバーの名前と顔を覚える(100人ぐらい)、そして自部署との付き合いのある対外部署や社外の会社との関係を知る、当然、社会人としての言葉遣いを学ぶという非常に重要な要素があります。これ以外にも電話番によって知る事は多いです。なので、大切です。2つめのはんだ付けですが、これは電気技術者としては非常に基本的かつ重要なスキルであります。試作などの製作で同じ物をたくさん作のですが、これによってばらつきというものが頭ではなく体で覚える事ができます。さらに製造における不良の実態を自分の体で感じ取る事ができます。不良率などは数字で判断する事にはなるのですが、その数字の真偽を感覚的に捉える事ができるようになります(論理的に評価する事はたやすい)。当然仕事を進めていけば、製造の現場にも行く機会が増えこの感覚はますます磨かれます。技術者なのに勘などに頼ってどうするというふうに思う方も多いと思います。私が今まで技術者をやってきて思っているのは、設計などの現場では全てを論理的に捉える事は事実不可能だと言う事です。当然、できる限りの部分を論理的に捉えて論理的に検証する事が重要である事は間違いないのですが、100%にはなりません。では、不明な所があるから決められない、分からないでは仕事としての結果は何も出ません。当然時間をかけてこつこつとデータを積み上げ論理を構築すれば不明な所は減るでしょうが、仕事では論理と同じぐらいスケジュールが重要です。期限までに物が作れなければ、そこで終ってしまいます。そういう部分で役に立つのが感覚です。この感覚を養う事でスケジュールの中に仕事を押し込む(ちょっと表現悪いですね)事ができるようになります。でも、これが重要だと思います。なぜなら、他社よりも1日も早く先に新しい商品を出せるかどうかで、自分たちの仕事の評価が天国と地獄ぐらい変わってしまうと言う現実があるからです。

とまぁ、こういったことを新人時代に身につけます。あくまでも私の場合は、ですが。今になって思えば、新人時代というのはスキルを磨くと言うよりマインドを身につけるという方が正しいような気がします。会社の社員としてのマインドさえ身につけばスキルはあとから付いてくるでしょうから。

メーカーの雇われ技術者としてのマインドはそこそこできたとしても、やはり日々の業務はつらいもの。社内での一通りの業務ができるようになりかけた所で、いよいよ社外にも出て行かなくてはいけなくなります。まずは、出張という地獄巡りに一人で行く事に・・・

 

つづく

定期的にこのブログを書いていきたいのですが、いきなり何を書くかというのは意外と決められないものです。でも、やはり何かテーマなりを設定しないとなかなか書けない。といって、あまりたわいも無い事をだらだら書いても意味がないと思いましたので、当面は私の職業エンジニア時代のエピーソードを挙げていきたいと思います。ある一人のサラリーマンエンジニアの話として楽しんで頂ければ幸いです。

今回は、私が今の会社に入る頃の話をしたいと思います。

当時私は大学院の修士課程におり、進学か就職かという選択に悩んでおりました。研究室の教授(当時は助教授でしたが)からは博士課程で研究を極めるのも良いと思うと言われておりました。しかし、当時博士課程を卒業しようとしていた先輩や、ポスドクの方もいたのですが、正直かなり生活は大変そうで、研究者の道に進むとしても助教授になるまではまともな生活ができそうにないという状況を見ていました。自分には博士に進んでいる先輩ほどの頭もないし、もし博士課程に行ったとしても先輩以上の苦労を覚悟しなくてはいけないと思っていました。そう考えるとやはり就職するしかないか、就職すれば人並みの生活ができるかなと単純に考えてしまいました。

ということで、就職活動をした訳ですが、当時の理系職の求人システムは各メーカーなどから大学に推薦枠というものが設定され、その推薦枠を使って就職するのが一般的でした。その就職枠の選定に当たっては希望者を募り成績順に埋めていくというものでした。なので、成績が悪いと人気の会社の推薦は取れないということです。しかし、人気がない所であれば意外と取れます。私はあまり人気が殺到している会社を避け、1次募集で空きが出た会社を選びました(何といういい加減な。今の学生さんには殴られそうですね)。しかし、その会社はどう見ても大変有名な会社であり、なぜ人気がないのか分かりませんでした。そこで、先生に聞いた所その会社は推薦を出しても面接を行い、おまけに落とされると言うことでした。当時の学校推薦枠ではほとんどの会社が面接と言っても形式的なもので実質学校推薦が取れれば内定が取れたという事になりました。しかし、私が応募した会社はバブル時期でもバンバン落とされてました(これは多分うちの大学の問題だろうと思います)。これはいかんと思いましたが、もう既に他の会社の推薦枠はなく採用面接を受けるしかありませんでした。また、この会社の就職試験は筆記は当然として面接は非常に長時間なものが設定されてました。面接は2つに分けられ技術面接と人事面接の2つがありました。技術面接に至っては設定時間が90分、何を聞かれるんだ?とかなりびびりました。面接の日まで電気工学科の必須教科を再度勉強しなおし、Mathmaticaではなく自分の手で数式を計算できるようにしました。でも、自分の中には就職ができなかったら進学しようという甘ちゃんな考えがあったのも確かです。学費も大学院は奨学金を貰っていたのでそれで行けるだろうと、何ともいい加減でした。

で、就職試験を終え手応えもないまま期待せずに結果を待っていた所、内定を頂いてしまいました。はっきり言って面接時に集まっていたメンツを見たらもうこれはだめだろと思っていたのですが、なぜか私のような優秀ではない人も取るんだと感心してしまいました。内定も出たことだし、これで修論研究に打ち込めると学会発表の準備にいそしんでいました。その後学会発表の為アメリカに2週間ほど滞在し、これで学会発表のノルマは達成したと緩みきって日本に帰ってきた所、アパートの郵便受けに雨でぼろぼろになっている書類が刺さっていました。なんだこれはと開けてみると、なんと入社手続きの書類でした。で、急いで書面を読むとなんと締め切りの3日前じゃないか、と。ほんと、死ぬかと思いました。翌日急いで会社に連絡し、事情を話した所締め切りまでに出して貰えば問題無いとのことでした。しかし、独身寮の入寮手続きは既に締め切られていた為、残念ながら私は寮には入れませんでした。

その後、入社式まで特に何もなく(今のような内定式などはなかった)、入社前に会社の本が何冊か送られてきて読んでおくようにと言われたぐらいでした。(その本は既に読んでましたが)

4月1日 入社式が行われ、会社の創業者の挨拶があり、あー、これで社会人かぁ、などとのんきに構えていたら入社式後のオリエンテーション最後にいきなり配属先の辞令発表があり、個人毎に辞令が渡されていきました。所属部署に関しては面接時と入社手続き時に第3志望まで書けるようになっていました。私は入社書類に”1:ビデオ 2:テレビ 3:オーディオ”などと言うあまりにも悠長な志望を書いてしまいました。研究職志望かと聞かれたのでそれを断り事業部志望と言ってしまったので、商品カテゴリーを指定しました。で、渡された辞令には”テレビ事業本部 ***事業部”と書かれていました。(***の部分に関しては、来年以降明示します。) 一応本社圏でした。しかし、私の隣にいた人は愛知の事業所配属となっていました。うつむいたままその日のうちに愛知に行き、次の日には愛知の事業所に出勤していました。はやり会社はこえーなといきなり思いました。

人生最初の職場出勤日です。先輩に連れられ職場まで案内され、いきなり職場で挨拶をさせられる事に。私の入った事業部は約100人の部署でかなり大きい方です。事業部ですのでいろんな人がいて技術者だけではありませんでした。と言うか、技術者以外の人が多い。また、事業部の担当していたマーケットが全て海外だったので、事業部内にはいろんな言葉をしゃべる人がいました。挨拶後にもいろんな人から個別に挨拶されましたが、ほんとに多種多様な人たちで、こんなところで俺やっていけるのか?と正直思いました。そして、私の会社でのデスクと作業台を教えてもらい、おもむろに座席に座り、さぁ何をすれば良いんだ?と呆然として私の社会人人生が始まりました。次の日から、右手に半田ごて、左手に電話の受話器という事業部エンジニアの誕生となる訳です。

つづく

ようやく落ち着いてきたので、発表したいと思います。

今年一杯をもってサラリーマンを卒業することになりました。大学卒業から今の会社に入社しほぼ18年、職業エンジニアとしてやってまいりました。この決断に至るには1年ほどかかりましたが、退職が決まりました。

大学院に残る勇気もなかった私は、今の会社の内定を頂いた事もありプロのエンジニアとしての道を選びました。ラッキーにも一人前のテレビ技術者となり、入社以来ほぼ18年一貫してテレビの最前線に立ってきました。多分、製造業のエンジニアとして製造の現場まで経験している最後の世代の人間です。ここ数年はその製造現場を海外に移転する事が仕事の一つとなっていました。非常につらい仕事でした。ようやくというかついに私の役目も終わったと思ってます。現場にこだわる私の目指す道と会社の目指す道はもう決定的に異なってしまいました。ただ、会社では技術開発、設計、製造、市場対応まで製造業のメイン業務の全てを経験する事が出来ました。最後の業務まで非常にやりがいのある商品をやらせてもらって技術者として幸せ者でした。テレビ技術者として、アナログテレビ全盛からデジタル放送そして液晶テレビとこれらの時代をまたいでテレビ技術者でいられたことは本当にラッキーでした。

しかし、現役のプロエンジニアとしては今年で終わりになるでしょう。寂しいですが。来年以降はアマチュアの(テレビ)技術者としてフリーのコミュニティーに今までの18年の経験とノウハウを全て投入いたします。今まではおかかえ技術者ということもあり、持てる物を会社外に使うことがあまりできませんでしたが、退社後は全て投入いたします。コミュニティーの皆さんご期待ください。とはいっても、守秘義務はもうしばらく続くのでその縛りはあります。しかし、各種プロセッサを用いた組み込みプラットフォームの基本設計、商品化設計やLinux base SDKによるソフトウエアプラットフォーム、基板設計のノウハウは100%投入できると思っています。仕事では、技術以外の拘束条件が大半を占めてましたが、来年以降は100%技術志向で行きたいと思います。ストレス発散ですね。

この時期会社辞めるというのはかなりリスクフルなものがあります。いかにリスクヘッジするかの準備は意外と時間がかかります。準備をしたとしても依然として大きなリスクが残ることも事実です。来年以降は会社の肩書を捨て、いよいよ独り立ちする事になります。今までの私自身の全てがシビアに評価される時でしょう。商売人の息子としてようやく親父からの教えを実行する時が来たと思っています。今は来年からの挑戦に向け準備に忙しいです。といっても、この冬はちょっとゆっくりしたいとも思っています。ここ数年行けなかったスキーにも行きたいです。実家にも帰って少し頭を冷やして高校時代の頃の初心を取り戻したいとも思っています。

あ、来年以降で私のような老兵エンジニアを使いたいという方、プロ、アマ問わずいつでも受付中ですよ! これからエンジニアを目指そうという方もご相談にのります、参考になるかは保証しませんが(-.-)。

 

最近までは非常に忙しかったのですが、今後はもうちょっと頻繁にこのブログも更新しようと思っています。興味を持って頂ける方にはよろしくお願いいたします。

 

貝吹 太志

今日も性懲りもなく秋葉原に出かけてしまいました。天気は時々雨がぱらつく天気でちょっと人も少なかったような気がします。しかし、蒸し暑かった。

いつものコースを一巡してまた3331 Arts Chiyodaに行ってしまいました。今日はグランドオープンだったのですね。確かに、先週末はまだ1階はかんかんと工事をしてました。今日はオープンイベントが行われていたようでかなりの人が来てました。やはり芸術系の方が多く、秋葉原とは言えかなり雰囲気の違う集団でした。男女比もバランス良く、また皆個性的な方ばかりが来てた様に思います。しかしなんでこんな施設にはんだづけカフェがあるのだろう。

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こんな感じでしたよ。このような施設が今後増えると嬉しいのですが、どうでしょうか?

帰りにも再度パーツ街の方を回って帰りました。途中の写真もついでに載せときましょう。

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湯島側からの一枚。真ん中の黒いビルはベルサール秋葉原ですね。その手前一帯がパーツ街ですね。

この道を直進して行きました。

しかし、これから夏にかけては厳しい季節ですね。私は夏は苦手です。

ではでは。

今日は1ヶ月ぶりぐらいに秋葉原に出かけました。嫁の実家に行ったついでというのもあるのですが、やっぱり久しく行かないと、なんか不安になる。

で、今日はいつもの秋葉原巡回ルートを一通り巡った後、3331 Arts Chiyodaにある「はんだづけカフェ」に出席してきました。今日は時間もあったので15時半ぐらいから18時ぐらいまで居ました。今日はかなりの人が既にいて、皆さんかなり本気に工作に集中されてました。私は特に工作する物などは持たずふらふらっと入ってしまいました。ただ、ここはかなり居心地が良いです。今日は暑かったですが、室内は涼しいぐらいクーラーが効いていてシンガポールを思い出しましたよ。今日は私が「はんだづけカフェ」に関して気付いた点をいくつか挙げておきます。

・USTREAMの中継画面で見たより、部屋はこぢんまりとしている。

・作業机は8人分ぐらい。今日は急遽机を足してました。

・今日は社長さんがいらっしゃった。”MEGADEATH”のTシャツを着ていた。

・部屋には本棚がありそこにはCQ出版社の雑誌(トラ技、CQなど)や一般書籍(定本など)があり、かなり暇がつぶせる。CQ出版社から寄付されたらしい。

・まだ、道具は基本的な物(ドライバ、ニッパ、半田ごて)しかない。皆さん自分で道具箱を持って来ていてかなり本気を感じる。

・LAN(Wifi)環境は快適。電源も取れます。

・今日の皆さんはパーツは千石で買ってきてる人が多かった。キットはやっぱり秋月の物を買って作ってる人が多い。

・建物は全くもって学校のまま。ただ基本芸術系の組織関係者が多いので、近代美術館のような非現実な空間。私はこんな空間がこの社会にあるんだと感心した。ちょっとN.Y.やパリに近づいたかな?

・敷地入り口に喫煙所(屋外)がある。タバコを吸うのが大変な千代田区にあって貴重なスペース。雨の日は困るかな。

・来ている人は意外と若い人が多いようだ。おっさんは少ない。あたり前かな。このご時世に若い世代で工作する人がまだ居ることには感謝せねばなるまい。

 

とまあ、気付いたことをそのまま書いたが、気になる方は是非一度見に行ってもらいたい。ただ現在USTREAMの中継は音声も出るようになったようで、部屋での会話もだだ漏れなので外見、言葉にも気を付けよう。

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